NBA選手図鑑:「神から35秒を借りた男」トレイシー・マグレディ

選手図鑑

                     

神様から35秒を借りた男。その35秒で13点を取り、バスケ歴史上もっともありえない逆転を見せつけた。

 無精ならがも優しさが目に宿り、情熱的なプレイを見せつつも上品な雰囲気を常に漂う。NBAファンの僕にとって、彼にはいろんな姿に見えた。北境で飛ぶ生意気な少年、マジックの上空に漂う鮮やかな青、ヒューストン市民にとってのロケッツ操縦士。

 彼の名はトレイシー・マグレディ。僕みたいなNBAファンは彼をT-mac(ティー・マック)と呼んでいるだ。

 何はともあれ、先ずは彼のトップ10ハイライトをご覧あれ!


 非常に得点力の高いスコラー。爆発力、ジャンプ力などの身体能力はもちろん、オフェンスのバリエーションにおいてもNBA史上リーグトップレベルを備えている天才。

基本情報

ポジション: シューティングガード、スモールフォワード

高校の時はなんと5つのポジションすべて任せられるというオールラウンダー!!

身長:203cm
体重: 101kg
ドラフト: 1997年第1ラウンド第9順位
メインの所属チーム: トロント・ラプターズ オーランド・マジック ヒューストン・ロケッツ
  

(後期はニューヨーク・ニックス、デトロイト・ピストンズ、アトランタ・ホークス、サンアントニオ・スパーズ)

キャリア

ビフォーNBA

子供時代
 アメリカ東南部のフロリダ州出身。母親が高校生の時に彼を生んだが、父になるべき男はその責任を果たせずに人間蒸発。そこで母はおばあちゃんと一緒にこの天才を大事で育てていた。

 マグレディは小さいころの誕生日に、いつも100ドルのお小遣いがもらえると言ってました。(いいなぁ~結構幸せだなぁ~)ただ、のちに自分の親友が銃殺事件に会い、その事件を機に彼はその環境から脱出したいと思うようになったらしい。

高校時代
 最初は野球が好きで、バスケにはあんまり興味がなかったが、1993年アンファニー・ハーダェイがマジックに移籍し、その鮮やかなプレイスタイルでマグレディを魅了し、そこからマグレディもバスケ好きになった。

 

 アンファニー・ハーダウェイはスラムダンクに出てきた沢北のモデルになったスーパースター。
 また、その影響でマグレディはハーダウェイと同じく背番号1番を選んだ(のちにマジックに行ったのもハーダェイの影響が大きい)。
 

 高校1,2年生では顧問に信頼してもらえず出場時間があんまりなかった。だが、高校3年生で23ポイント12リバウンドといきなり爆発し、注目され始めた。

 だが、成績が良くなく奨学金を出してくれる大学は少なかった(それもハーダェイに似ている)

 運よく彼のAAUコーチ、アイウェス・スミス(アディダスのストリートスカウターでもある)が、1996の夏ABCDキャンプのインビクションを取ってもらい、彼はそこで頭角を現した。

 ABCDキャンプとはアディダスがアメリカで毎年定期に主催するバスケキャンプ。
 各地方の最優秀な高校生が集まりスキルを切磋琢磨する高校バスケの最高峰コミュニティである。
 いろんなスーパースターが高校の時に行ってたよ!!


そこで、はじめは無名だったマグレディが、
当時5つのポジションでプレイができる天才高校生といわれているラマー・オドムとのセッションプレイで圧倒的な優勢でオドムに勝ち、すべてのバスケ関係者を大きく驚かした。

 ラマー・オドムは後にレーカズの2連覇時期で活躍していた選手だが、バスケ以外で薬や女関係などで素行があんまりよくなかった、、、

 そこから、マグレディこそが全米一の天才高校生ではないかという噂が広まるようになった。

 マグレディがABCDキャンプで有名人になったあと、コーチのスミスはマグレディにもっと競争力の高いmount zion高校というところに転入籍を進めた。

 そこのバスケコーチジョン・ウォプキンスはマグレディのことを含め、プレイヤーへの教導がうまく、チーム全体も常にアメリカ国内の強豪。そこで彼はよりバスケに集中するようになり、日々バスケを中心とした高校生活を送っていた。

 その在籍期間、マクレディの隙間ないパフォーマンスによって強豪Oak Hill Academyを2度も負かし、平均データもトリプルダブルに近く、非常に優秀だった。高校卒業までに、平均27.5ポイント、8.7リバウンド、2.8スティールと豪華な成績を残しマクドナルドのオールアメリカン1stチームにも選ばれ、高校を全国第二位まで導き、州MVPも獲得した。

Oak Hill Academy、カーメロやデュラントたちの母校、めちゃめちゃ強い。
 

 

 高校三年生の終わりころマグレディは大学に進学する予定だったが、NBAのベテランスカウター、マーティー・ブレーク「NBAの数チームはすでに君を欲しがっている」と告げられ、それでチームコーチの勧めで大学をスキップし直接NBAのドラフトに参加した

 その時、結構な数のチームはマグレディを手に入れたかった。

 たとえば、ジョーダンを有するシカゴ・ブルズ。ブルズのチームマネジメントの管理者ジェリー・クラウスによると1997年、ブルズはもともとスター選手スコッティ・ピッペングリーズリズへとトレードすることで、第1ラウンドの第4順位の選択権を手に入れ、その選択権でマグレディを選ぶ予定だった。
ピッペン、ジョーダンのベストパートナ

 だが、ドラフト大会が始まる数時間前に、マイケル・ジョーダン本人からシカゴ・ブルズの管理層に電話が来て「もしピッペンをほかのチームへトレードしたら、俺は即引退すると半ば脅迫するように言われたって、、、それでブルズはマグレティを諦めざるを得なかった。
自分の管理層に
すら憚からない、、、さすがバスケの神様。

イン・ザ・NBA

 先ず、マグレディはいつまでもスター性を兼ね備えている選手だが、振りかえて彼の最も注目すべき時期はオーランド・マジック時代だと思います。

ラプターズ時代
 1997年第1ラウンド第9順位でトロンド・ラプターズに入団。開幕前から、アディダスはマグレディのポテンシャルを買って先に6年1200万ドルの契約を結んだ。

 当時の新米にしては結構なだよ金額、しかも当時T-mac専用のロゴすらアディダスが作っていた。専用ロゴを持つということはスーパースターとしての一つのシンボルである。それをマグレディはリーグに入る前から持っていたのだ。
 TとMと1番、あとラプターズだから恐竜の爪のデザイン

 だが、多くのラプターズファンの美しいい期待とは裏腹に一年目のマグレディは7ポイント、4.2リバウンド、1.5アシストとあんまり活躍していなった。

 そこからチームメイトであるヴィンス・カーターの活躍もあり、目立った成績を残せずにいた。
ヴィンス・カーター(マグレディの従兄でもある

 3シーズン目あたりからは先発に名を連ねるようになりその才能に注目が集まりだし、カーターとマグレディがマイケル・ジョーダンとスコッティ・ピッペンのようなコンビになると期待も膨らんだ。

 だが、2000年フリーになったマグレディは単独のエース願望が強く、オーランド・マジックへ移籍することを決意した。

オーランド・マジック時代
 マジックにに移籍後、一気に個人成績を向上させ、
2000-2001シーズンでもっとも成長した選手に贈られる賞であるMIP(Most Improved Player)を受賞。

2001年、2003年のNBAオールスターゲームには、先発選手として出場。

2001-02シーズン、2002-03シーズンにはオールNBA1stチームに選出される。

2004年3月10日、対ワシントン・ウィザーズ戦で、NBAシーズン最高記録となる62得点を挙げる。

さらに2002-03シーズンは1試合平均32.1得点の成績で得点王

次ぐ2003-2004シーズンも1試合平均28得点で得点王のタイトルを2年連続で獲得。

 当時は今と違いゲームのリズムが遅く、ディフェンスがものをいう時代リーグではスパーズ、ピストンズ、レーカズやティンバーウルフズなどのディフェンスが強いチームがリーグを統率していた。


 2001-2004シーズンでは、NBAのゲーム平均得点は95ポイントを下回っていた。それは、NBAが3ポイントラインとフロースローラインを作って以来最も低い記録である。覚えてほしいのはマグレディはその時代で平均30点を取っていた男だ。
 ちなみに、2002-2003のコービーは平均30点でマグレディよりは低い。

 そしてマグレディに関してコービーはこう言っていた「The gay that always get the problem was Tracy Mcgrady」リーグのコート上でマグレディが一番手こづる相手だ」だと

ロケッツ時代から引退まで
 2004年からマジックのチーム成績が不振なために、トレードが要求され、マグレディはヒューストン・ロケッツへと移籍した。
そこでは中国からのビッグセンター姚明とのデュオは大きく期待されていた。

姚明は2002年NBAドラフト全体1位でヒューストンによってピックされた中国人センター。リーグで身長が一番高い。 身長はシャックも劣る

当時ではコービーとシャックのコンビに負けないくらいのデュオができたと世間をざわつかせた。

 だが、負傷のことで、2009シーズンまでヒューストンの成績はプレイオフまで深く進むことができず、マグレディ個人の成績もマジック時代と比べると徐々に下降線をたどる傾向になっていた。

2005-06シーズンマグレディは腰痛で35試合欠場

2006-07シーズン姚明は骨折で長期離脱

2007-08シーズン姚明は骨折でシーズンリタイア

2008-09シーズンマグレディは左膝故障で手術

 2010シーズンからマグレディはトレードの札としてニューヨーク・ニックスそれからは転々とピストンズ、ホークス、海外リーグ、スパーズへと頻繁に転籍、最終的には2013年8月16日にて引退を発表した。2017年ではバスケットボール殿堂入りが発表された。

プレイスタイル

非常に鑑賞性が高い
 マグレディのプレイはとにかく洒落ている!(カイリーと同じく強烈なプレイ特徴をもつ)見ていてとても気持ちがいい。たとえば、自分でボールをボードに投げて、跳ね返したボールをダンクするという非常に芸術性の高い技を見せつけてくる時がある。

万能のオフェンススキルと比類なきバスケセンス
 フェイクからのペネトレイト(突破)、フェイダウェイ、ピボットワーク(センターが良くやるわざ)などを駆使してディフェンスを翻弄し、相手がファウルすれば驚異的なボディバランスでバスケットカウントをもらう。 また優れた跳躍力と長いウィングスパンを活かしたダンクはNBAでも屈指のものである。

神に選ばれた身体(ヤニス、レブロンと同じ類の人間)
 高いジャンプ力による無敵のPULLOF・シュート(シュートの始発点がとても高く、そのためボールの空中で描くラインが低いのが特徴)ただ、そのシュートフォームは腰に負担をかけることがある。しかも2メートル身長でその爆発力はチート過ぎる。突破の第一歩はだれも止められない(天性のスコラー)。



そしてその破壊力を一番証明できるのが35秒の13点でしょう、彼はそのとき神様から35秒を借りたのだ。


試合終了後、スパーズのドウェイン・ブラウンの表情がすべてを物語っている笑( ´∀` )

・冷静?それとも無精?
 勝利に対する渇望が不安定でバスケに対する価値観がほかのプレイヤーと違う。同時期のコービー、アイバーソンなどは勝負がすべてだという気質に対して、マグレディは「No brothers, no basketball」と、バスケを自分の全てだと思っていないところがあるように見える。

 

マグレディがまだマジックにいたときに、親友であるマイケル・ミラーがトレードされたと聞き、怒りの頂点に足したマグレディは次の対ブルズの試合でたった3クォーターでなんと52点を取り上げた。当時のチームコーチーであるドック・リバースが冗談半分でこう言った。もしマグレディの親友がまだいるなら一人づつ全部トレードしていきたいと。そのように個人的な情緒で発揮を影響しているゆえ、軍隊を指揮るリーダーというよりマシンガンを持った戦士に見えていた。

ほかの面白いネタ情報

マグレディの名前の由来
 マグレディの名前トレイシーは古いアイルランドの名前。上の苗字でも下の苗字としても、男も女も使える。戦士またはパワーといった意味が含まれている。イギリスの影響もあってアメリカでは主に女の名前としてる使われている。

 McgradyのMcとはまたアイルランドで息子という意味で使われている。だらかマグレディのユニフォームの名前には小さいcが入ってる

まとめ

 個人的な栄光は多いが、チームとしての栄光はあんまりない。怪我やチームのマネジメント能力が主な原因であること間違っていない。しかし、マグレディの性格にも関係があるように思える。

 トップ級の身体能力と得点スキルを生まれ持っているが、強いて言えば、頂点に立つための野心が足りなかった。大多数の黒人選手のような激しい、闘争心の強い性格と違い、小さいころから母とお祖母ちゃんに丁寧に育てられ、生活環境もとても穏やかだったため、マグレディはいつも穏やかで、上へ上へとコービーのように勝利に対する渇きははたから見て感じにくい時がある(特にキャリアの後半期)。

 もし、マグレディは怪我防止するための訓練と準備をレブロンやコービーのようにほぼ毎日積極的にやっていたら、2000年代後半のヒューストンはもっと盛り上がっていたのかもしれない。それを想像するだけでわくわくしてしまうのは僕だけではないはず。それでも、2000年代前半マグレディの無双モード、1ゲーム62点、神から借りた35秒に魅せられたファンは数え切れません。彼、トレイシー・マグレディがやった偉業は一代のNBA好きの微笑ましい記憶となっていることは言うまでもないでしょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました